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日本人にとって身近なロゴマーク「家紋」について学んでみよう!〜歴史編〜
「家紋」は、私たち日本人にとって“一番身近なロゴマーク”と言えるでしょう。
実は「家紋」について学ぶ事は、ロゴデザインの勉強やスキルアップにも繋がります。そこで今回は、2回に渡って「家紋」の“歴史”と“デザイン”について、詳しく解説します。
■目次
-「家紋」の由来は何?
・「家紋」の起源は意外と古い!?
-「家紋」が使われる様になったきっかけは?
・武家に「家紋」が広がったのはいつ?
・庶民にも「家紋」が広まる
-明治時代以降の「家紋」
「家紋」の由来は何?
「家紋」と言うと、戦国時代を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。
戦国武将の旗や鎧に「家紋」が入っている事から、戦国時代から使われるようになったイメージがあるかもしれませんが、実はその起源は、戦国時代よりもずっと前まで遡ります。
まずは、「家紋」の歴史について解説していきましょう。
「家紋」の起源は意外と古い!?
「家紋」の由来となったものは、実は平安時代後期にありました。
日本では、「家紋」が使われる平安後期よりずっと前から、土器などに文様を描き装飾をつける文化(例:縄文土器)がありました。
そして平安時代になると、貴族たちは“文様=装飾”としての意味だけでなく、“それぞれの貴族の目印”として、衣服や調度品などに文様をあしらうようになります。
やがて平安時代後期になると、牛車に文様が使われるようになります。
牛車は貴族の一般的な乗り物でしたが、当時の公家(朝廷に使える貴族)にとっては“ステータス”を表すものでもありました。
公家たちは自分の牛車が分かりやすいよう独自の「紋」を付けて目印にしましたが、それと同時に、自身の権威を誇示する為にも使うようになったのです。
この牛車に使われた「紋」が、「家紋」の由来と言われています。
※「家紋」の由来には諸説あります。
【平安時代後期の「家紋」の特徴】
ロゴは、単に会社やブランド等の“目印”というだけでなく、図案の形(シルエット)によって“ロゴを見る人に様々な印象を与える”といった役割を持っています。
牛車に描かれた「紋」は、権威を示す為に装飾性の高いデザインが好んで使われていたようです。
「家紋」が使われる様になったきっかけは?
貴族の間でしか使われていなかった「家紋」は、その後、武家や庶民の間でも使われる様になって行きましたが、そこには貴族とは違った理由がありました。
武家に「家紋」が広がったのはいつ?
平安後期には貴族の間で「家紋」が使われるようになりましたが、武家の間で「家紋」が広がったのは鎌倉時代以降と考えられています。
源平の対立が激化し始めた平安時代末期、戦場では「源氏=白旗」・「平氏=赤旗」をそれぞれ掲げ、敵味方を区別していました。
ただし、赤旗・白旗だけで区別していただけなので、誰が敵を討ち取ったのか分からない(手柄が証明できない)状態となっていました。
この時、のちに「家紋」となる図案を軍旗にあしらっていた武家もありましたが、それはごく一部にとどまっていました。
画像引用元:Wikipedia | 治承・寿永の乱/『源平合戦図屏風』/赤間神宮所蔵
やがて鎌倉時代に入ると合戦が増え、武士にとって武勲を上げる機会が増えました。
つまり、戦においての“手柄の証明”が、より一層必要となった訳です。
そこで、軍旗や刀の鞘など様々なものに独自の図案をあしらい、戦場での“手柄の証明”となるようにしたのです。
この“手柄の証明”として使われる様になった図案が、武家における「家紋」の由来だと言われています。
※「家紋」の由来は諸説あります。
合戦の増加という時代背景があった事で、「家紋」は鎌倉時代から武家の間で一気に普及し、鎌倉時代中頃にはほとんどの武士が「家紋」を持っていたのだそうです。
さらに時が進み、戦国時代へ。
この時代は、「同じ家紋」を用いていた同族同士の戦が増えました。そこで、同族同士でも“敵味方の区別”をしやすいよう、片方の武家が「家紋」のデザインを変更。
その為、この時代には「家紋」の種類が一気に増えたのでした。
【鎌倉時代以降の「家紋」の特徴】
鎌倉時代以降に使われた「家紋」は、合戦の際に敵味方がすぐ判別できるよう、シンプルなデザインが多く使われていたようです。
店舗看板で使用するようなロゴの場合は、遠くからでも認識できるよう、シンプルめなデザインが多く採用されていますよね。
この時代の「家紋」は、平安時代後期の「紋」のような装飾性を高めるよりも、“視認性の高さ”が重視されていたのです。
庶民にも「家紋」が広まる
これまでの時代では、「家紋」を使っていたのは貴族や武家まででした。その「家紋」が庶民にまで広まったのが、江戸時代です。
この時代には身分制度が厳格化し、一般庶民は公に「名字」を使う事はできませんでした。
しかし「家紋」に関しては厳しい規制が無く、将軍や大名が使用している「家紋」(例:徳川家の葵紋)以外であれば、庶民でも自由に所有・使用が認められていました。
その為、「名字」の代わりとして使える「家紋」を持つ事が、庶民の間で一気に広まっていきました。
また、この時代は現代に比べて識字率が低かった事もあり、「家紋」は文字に変わって認識できる“目印”としても役立っていたようです。
ちなみに、この当時では社会的身分が低い階級にあった役者や芸人・遊女などにも、「家紋」の使用が認められていました。
ヨーロッパ諸国の場合は貴族や王族しか紋章を用いる事ができないので、このように広く一般庶民にも「家紋」の使用が認められているのは珍しい事なのだそうです。
【江戸時代の「家紋」の特徴】
職人にとっての「家紋」は、製品の品質を示す上で欠かせないものとなりました。
また、商人の場合は「名字」の代わりに使われていた「屋号(店の名前)」を象徴するものとして「家紋」が使われていました。
職人・商人のどちらにとっても、「家紋」は自分のブランドを示す目的で使われていたので、現在のロゴと同じ役割だった事がうかがえますね。
一方農民はと言うと、職人や商人のようにブランドを示す必要は無い為、“家を象徴する図案”として、現在の「家紋」と同じ役割で使われていました。
「家紋」のデザインに関しては、“視認性の高さ”が重視された鎌倉時代以降のものとは打って変わって、装飾性の高いものになっていきました。
「家紋」のデザインが変化した背景には、人々の暮らしの変化が関係しています。
戦国時代が終わり、江戸時代になって政治や経済が安定。人々の暮らしが華やかになって行き、「家紋」も戦国時代の“実用性重視”から装飾性の高いデザインのものが用いられる様になったのです。
ちなみにこの時代には「紋上絵師(もんうわえし)」と言って、「家紋」の専門デザイナー、今で言うところの“ロゴデザイナー”が活躍していたそうです。
明治時代以降の「家紋」
明治維新により身分制度が無くなり、全ての国民は「名字」を名乗る事が義務化され、庶民でも「名字」が使えるようになりました。
また、「五つ紋の黒紋付羽織袴」を礼装として定めた事により、庶民の間でも着用が普及。
さらに、墓石にも「家紋」を入れるように。
これらの事がきっかけで、これまで「家紋」を持っていなかった庶民も「名字」とセットで「家紋」を持つようになり、“ほとんどの国民が「家紋」を所有している”という状態に至ったのでした。
現代においては、普段の生活では目にしたり使う事が少なくなってしまった「家紋」ですが、その歴史は古く、時代によって役割を変えながら受け継がれてきた、身近なロゴマークだったという事が分かりましたね。
次回は、「家紋」のデザインについて、詳しく解説いたします。
お困りのことがございましたら、お気軽にこちらからお問い合わせください。